| 宮塚英也の、現在・過去、そして未来 日本を代表するトップアスリートとして、17年間、プロとしてのプライドを持ちながらレースに挑んできた宮塚英也さん。 抜群の練習環境で彼をはぐくんできた那須の一角にある宮塚さんのお宅を雪降り積もるとある日にお訪ねし、お話を伺ってきました。宮塚さんのお宅訪問と、研究所の紹介はエムスポ・ブロードバンドコンテンツでもご紹介いたしております。 |
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![]() 宮塚さんと長男の完英君(1歳) |
「宮塚さん、本当に長い間お疲れ様でした。何年間の競技生活になりますかねえ。トライアスロンに出会った頃のことをお聞かせください」 九州(熊本)の大学に入ったとき、高校の先輩に誘われて陸上同好会にはいったんですが、そのときにランナーズを見てトライアスロンの事を知ったんです。陸上のほうは、まあ、いつかはフルマラソンでも完走してやろうかなと思う程度だったんです。トライアスロンの存在自体はその頃から知っていて、いつかはやってみたいなとは思っていました。 大学4年の年(1985年)、トライアスロンJAPAN誌が創刊されました。そして、4月には第1回宮古島トライアスロンが開催されました。陸上を引退していた私は、すでに同世代の中山さん(中山俊行氏)や山本さん(山本光宏氏)が活躍していて、すごいあせりみたいなものを感じてました。 そうしたら、10月に地元熊本で、第1回の天草トライアスロンが開催されると言うではありませんか。もうこれは、いてもたってもいられなくなり、熊本市内のサイクルショップ・クシにいって、10万円の自転車をローンで売ってもらいました。それで出たのが第1回天草大会です。 結果は7位でしたが前にいたのは外人2人と日本人4人の招待選手でした。 「すると第1回天草大会が初レースということに?」 実はそ2ヶ月前の8月に宮崎でハーフアイアンマンがあるというので出かけていったんですよ。そうしたら、開催ができなくなって、記録会になったしまったんです。出場者は18人。一応、一番最初にゴールしました。 あくまで大会ではなく記録会だったので、「いい記録でしたね、おめでとう」で終わってしまいましたが(笑)・・・ はじめて3種目を走ったといえば、それになりますね。 「数多く出た大会と言うとどこの大会になりますか?」 宮古島大会ですね。1990年から2002年まで連続で出てまして、実はその前にも1回出ているので14回になります。 ハワイのアイアンマンは11回ですので、宮古島のほうが多いですね。 90年以前の宮塚選手は、3月にゴールドコーストで行われていた賞金レースのワールドカップトライアスロン、5月のサイパン・タガマントライアスロンに毎回出場していたために、宮古島は自粛していたようです。 「いつごろからプロになったのでしょうか?」 88年のシーズンから、那須のスコッチハウス25に入りました。仕事も6時間するという条件でしたので、ここではプロというより、実業団ですね。充分にトレーニングができて、社員としての給料もくれて、社員寮にも入れて、試合の遠征費まで出してくれていたので大変ありがたかったです。 スコッチに行く前から、物品のサプライは受けていたんですが、本格的なスポンサーは90年からです。所属マネジメント会社のサニーサイドアップのお世話で「日本テレコム」がついてくれました。日本テレコムは98年までスポンサードしていただきました。 90年、91年あたりは、スコッチの社員でありながら個人にスポンサーがついていたわけで、今のマラソンの高橋尚子と同じスタイルですね。 あのスタイルの先駆者は実はおれだったんだというわけで(笑) 「スコッチハウス25には他にも選手がいましたね。」 トライアスロンでは、青田とか白井、他にも陸上の長距離選手やマウンテンバイク、柔道とか、まあ一番多かったのはゴルフの研修生で10名位いたかな。社長が人に頼まれれば、何のスポーツでも面倒を見てたって感じでした。 「最高でどの位の収入があったのでしょうか?」 一番もらっていたときは年収1000万以上でした。 そりゃーもう、年収は1000万超えているわ、会社の寮に入っているわ、遠征費も会社が出してくれるわ、笑いが止まんなかったですね。なぜか今はほとんど残ってませんが(笑) 他の人気スポーツには比較にならないけれど、金額についてはプロと言って恥ずかしくない額だったと思っています。 「サニーサイドアップと言えば、パルマの中田英寿のマネジメント会社ですね。」 今は中田以外にも、杉山愛(テニス)、西村晃一(ビーチバレー)、スポーツだけじゃなく、大黒摩季(ミュージシャン)、乙武洋匡(ライター)、高橋 和(将棋)なんかも所属しています。でも、おれが会社で最初の所属選手。いわば、一番の兄弟子だね。みんな会った事ないけど(笑) 乙武なんか、スポーツ雑誌のナンバーで連載記事書いているのに、なんで俺に来ないのかってずうっと思ってました。引退する前に一度は俺に取材に来いって。それが義理ってもんでしょ(笑) サニーサイドアップの情報は こちら。 「17年間の選手生活に悔いはなかったですか?」 普通、大抵の人はなかなか趣味を仕事にすることは難しいと思うんですが、自分の場合はそれができて本当に良かったと思います。しかも普通の25、6のサラリーマンではもらえないような金額のお金までもらえて・・・実は大学4年の時、熊本で就職活動したんです。スーツを着て、ネクタイ締めて、企業を回ったんです。でも一流の大学出るわけじゃないので一流の企業に入れるとも思ってないし、このまま小さな会社のサラリーマンになるのかと思うと、ホント嫌だったですね。そういう意味では他の人と違った生き方を選んで、ここまでやってこられたことは、まあ、自分の努力もあったけれども、悔いみたいなものは全くありませんね。プロ選手としては引退しますが、これで終わりだとは全然考えていません。 「辛かったことはありましたか?」 まあ、さっきのとおり、趣味が仕事だったので肉体的に辛いとか苦しいとか感じたことはありませんでしたね。山本(光宏)さんのような大きな怪我に見舞われることもなかったので良かったです。ただ、プロ選手としてレースに勝ってあたりまえと思われるから勝たなきゃいけない。地方の大会に招待されると、こっちはその大会のためのトレーニングをしてなくても、その大会で俺に勝とうと練習してきた一般の選手に勝たなきゃいけない。その精神的なしんどさはありましたね。 「今までで思い出の深い大会や印象に残るシーンはありますか?」 やっぱりハワイのアイアンマンで10以内に2度入った事かな。 88年は勢いで走ってしまって何がなんだかわからないまま入賞してしまった感がありますが、94年は周りのレベルも相当上がっている中、30歳とい年齢もあり周到に準備を進めて望んだ大会でした。すべてが計画どおりにすすんでの10位入賞は本当に嬉しかった。俺も強くなったと実感したレースでした。 あとは97年の佐渡の日本選手権かな。これもレースまでのトレーニングもレース運びも計画どおりに進んだ快心のレースでした。去年の宮古島もそうなんですが、俺の理想のレースは「逃げ」なんですよ。スイムはまあ大して速くはないからバイクでとにかくトップにたって差をつける。そしてランで逃げる。これが宮塚英也のレーススタイルです。人にはよく、バイクで足をためてランで勝負したら・・なんて言われたこともありましたが、これじゃ宮塚じゃないんです。とにかくバイクで先頭に立ってランで逃げる、これが俺のスタイルです。まあ、宮塚は逃げ足の速い選手だったということですね。(笑) 「若い時に比べると最近の宮塚さんは筋肉の量が減ってませんか?」 たしかに若い時はムキムキしていました。若い時は無駄な筋肉があっても勢いでレースを押し切れてしまうんです。でも、プロ選手を続けているうちに、1年でも長く現役選手として活躍したいと強く思うようになりました。その為には肉体を改造しなければならない。長く現役選手を続けるために無駄な筋肉を殺ぎ落として必要な筋肉を鍛えるトレーニング方法を考え、実践した結果だと思います。 「2002年10月のアイアンマン・ハワイが現役最後のレースとなったわけですが、現在の生活の様子を教えてください」 レースのオファーは引退宣言をした後もありました。でも今年1年間は出場するつもりはありません。毎年招待してくれる地方の大切にしたい大会もありますが、ひとつお引き受けすると、もう片方でお断りする大会に失礼ですので、一切レースには出ないつもりです。 「奥さん(博江夫人)が招待されたら?」 まあ、かあちゃんが招待されて、俺と完英の交通費と宿泊費を大会で見てもらえるんだったら喜んでいきますよ。(笑)大会の前日に俺のクリニックサービスとかやれば、選手にも喜んでもらえるんじゃないかな。 「トレーニングは全くやめちゃったんですか?」 そんな事はないですよ。週に2回はプールに行って1500は泳いでますし、毎週日曜日は「那須でトライアスロンを楽しむ会」の面々と50kのバイクライド。週に1度だとついていけないので、30分程度のローラー台を平日に1回。トレッドミルにも週に2回はのっています。ウェートトレーニングも高校生に教えながら40分程度やってますね。ただ、これらの運動はいままでやってきたような「トレーニング」ではなく、自分が他人に教えるための「研究活動」だと思ってください。 「これからの収入の心配をしちゃうんですが・・・」 約7年前あたりから、パーソナルプログラムサービスやクリニック活動を行ってきました。その結果、エイジグルーパーの方々へのコーチングが充分ビジネスになると確信しています。17年間蓄積した私のノウハウには絶対の自信があるのです。まあ、この家が自分の持ち家ですし、ぜいたくさえしていかなければ、一家3人食べていくだけの収入は十分ありますよ。4月からは完英も保育園に入れるようになったんで、かあちゃんも働いてくれることだし(笑) 「具体的にはどのようなサービスがあるんですか?」 パーソナル・プログラムサービスといって、個人へのトレーニングプログラムサービスです。私が作った資料にデータを記入して送ってもらえれば、その人に最適のトレーニングメニューとトレーニング記録用紙を3週間分お送りします。ここまでは無料です。3週間後、わたしのトレーニングメニューが気に入ったら記入済みの記録用紙とアンケートを送り返してもらいます。以降は月1万円で1か月分のトレーニングメニューと記録用紙をお送りします。つまり、1ヶ月単位の契約になるわけです。気に入らなかったらいつでもやめることができます。日本全国はもとより、海外在住の日本人にも利用してもらっています。 クリニック・サービスは、10〜20名の団体用のサービスです。私が出かけていって、スイム、バイク、ランのクリニックを行い、その後ミーティングを行います。ミーティングではオリジナルの10枚のテキストを用いて、トレーニングプログラム講座を行います。 トレーニング・コンサルティングサービスは、基本的には私の研究所まで来ていただき、ランのレベル、バイクのセッティング、フォーム等を調べて、個々にあったトレーニングの仕方や、プログラムの組み方、心拍トレーニングなどをアドバイスいたします。 このほかにもチーム契約でのコンサルティングも行っています。年間まとめてチーム単位の契約で活動します。名古屋の潟Aスリートという不動産コンサルタントの会社や今年の4月からは新たにチーム・パワーバージャパンというトライアスロンのチームが立ち上がるのでそのチームの面倒も私が見ることになっています。まあ、宮塚英也は依頼があって条件が合えばどこへでも行くという訳です。 「将来の夢は」 先にもいいましたが、プロ選手として引退はしましたが、これで終わったとは全く考えてませんし、これまでのノウハウだけで食べていこうなんて事もまったく考えていません。トライアスロンは3種目の競技をこなさなければいけないスポーツでそういう意味では普通のスポーツよりも3倍奥が深いのです。「スポーツ研究所」としたのも、実は私自身がまだまだ研究し、学ばなければならない事がたくさんあると考えているからです。 昨年の12月にイタリアに行きました。目的は自転車の本場での本格的なバイクポジショニングシステムを実際に見てみたかったからです。まあついでにパルマ対レッジーナの試合も見ちゃったんですが(笑) やはり、本場ヨーロッパのシステムは素晴らしく今後そのシステム作りには是非挑戦したいと思っています。この冬にはバイオ・サイズという人間の様々な寸法をきめ細かく測定する機械を導入しましたし、バイク・サイズという自転車のフレームサイズを測定する機械をイタリアに注文し、この春には到着する予定です。バイクポジショニングシステムの確立とそれをコンサルティングサービスに取り入れ、選手個々の体の特徴にマッチしたバイクを製作するためのスケルトン作りが当面の目標といったところでしょうか。 「完英君の事」 広島東洋カープに小林幹英という投手がいるんですが、昔から、いい名前だなと思って、その響きは頭の中に漠然と残っていました。男の子が生まれるって判った時、姓名判断でしらべたら、8画と7画の文字がいいって判ったんです。俺の英也の「英」は8画。それをつけることを前提に7画文字を探していって「完」の文字を見つけたとき、ピーンときたんです。もうこれだ!!って思ってこわごわ奥さんに聞いたら、許可してくれました。(笑) 生まれたときは、金になる野球やサッカー選手になんて考えてたけど、最近はなんでもいいからスポーツ好きな子になってくれればいいやと思うようになりました。 「トライアスロンはやらせないのですか」 (声の調子がはっきりかわって) 本人がやりたいのであれば、是非やらせてみたい。でも無理やり押し付けることはしないつもり。やったとしても、ビデオ持ってキャーキャーさわいで追っかけることはしないと思う。アドバイスは家の中でこっそりと・・・ SPECIAL NEWS!! 宮塚英也からの読者プレゼント 今回、宮塚英也さんから、エムスポリニューアル記念として、素敵な読者プレゼントをご提供いただきました。 詳細は こちら 宮塚家お宅訪問、及び宮塚英也スポーツ研究所の様子は、エムスポ・ブロードバンドコンテンツで動画でお楽しみいただけます。 ブロードバンド環境をお持ちの方は、是非! (会員限定) エムスポ、ブロードバンドコンテンツへ GO! |
![]() 85年第1回天草大会のスイムゴール ぎらぎらと原石の輝きをしていました。 |
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![]() 88年、スコッチ25のユニフォームを着て初のハワイ・アイアンマンマン。結果はいきなりの9位。多くの関係者の度肝を抜いた。( トライアスロン・JAPAN誌89年1月号) |
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![]() 1994年のハワイ・アイアンマンのゴール。 レースNoが示すとおり、昨年の20位から一気にTOP10入り。 (トライアスロン・JAPAN誌94年12月号) |
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![]() 現役ラストランとなった、2002アイアンマン・ハワイ。走りながら、胸中を去来するものはいったいなんだったのだろう。 |
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![]() 体の様々な寸法をサッと測ることができる新兵器、バイオサイズ。 |
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![]() 昔なつかしのジュークボックス。70〜80年代の名曲が一杯。(選曲・宮塚英也)でも残念ながら壊れていて動きません。俺なら直せるという方おりましたら是非メールください。 |
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![]() しっかり者の博江夫人と完英君。 |
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| 宮塚家のみなさん、ありがとうございました。 | |